昭和40年8月27日 夜の御理解 ★
今日、山口の長田先生がお参りしてみえられて、まあ、いろいろもう「本当に先生私はもう、椛目流でおかげ頂かなくければ、とても、私のようなお広前のごひれいはたたんと思いこんでおります」と。いわゆる、その私共の先生は、その事に関してはもう何にもいわん。いわゆる、その、ご主人の方が椛目にお参りしますよというても、参っていかんとも仰らなければ、その参れとも仰らない。ほんで、その参ってくるですけれども、どうも、主人もその気にならなければ、本当のごひれいは頂けんと思うんですけれども、というて、まあいうておられましたが。
★ その中にもう本当にあの、椛目流にお知らせを頂いておられるわけですね。その、お知らせの中にこういうお夢を頂かれた。御飯を炊き上げているその御飯の中に、タコの足がいっぱいこう刻んで入れてあるという。それをその、私と飯塚のあの古賀先生と二人、一緒に一生懸命その、タコんところだけをひろうてその、をー食べておるとこう頂いておる。ところがあの、横から熊本のいわゆる姪御さんになりますよね、ひろこさんです。ひろこさんが来てから、酢をぱあーとそん中にかけてからこう混ぜ句ってですね、そしたら、見るからにその、寿司御飯になったという所を頂く。ひろこさんのごとして頂けば本当においしかろう。と言うところで目が覚めたとこういう。皆さんお聞きになったらだいだい分かるだろうと思うですけれどもね。タコの足のお知らせとは「よかとこ」いうんですかね、椛目のいうなら魅力なら魅力といったようなときに頂くのですよね。その、椛目のよかとこだけひろうて、帰ろうとしておると言う事。これは、私にいたしましても池尻にいたしましても同じ事。ね。私はそれではないごたるけれども、私共の主人がまあそんな風でございますから、そのお知らせを頂いたのでございましょうけれども、先日も熊本に参りましたらもうとにかく、その、ひろこさん、まだ高校出たばっかりの娘のところにですね、やっぱ、日に何人かは、お話を聞きに来るそうです。そのお話がもう本当に、あの、椛目の先生のお話を頂きよるようなお話を致しますと。お知らせを頂くんですね。あの調子でいったらまた、椛目のようにその教師資格を持たんさきに、その、あのひろこのところでごひれいがたつのではないかと皆が言うておるそうです。
ね、いわばひろこさんは、そのお寿司のご飯の中にですね酢をこう混ぜる。いわゆる、酢を効かせるということですね。そしたら、それが見事な寿司御飯になって、しかも、その見たところがはあー、これなら美味しかろうと私も思いよるところだけれども、私の(?)はタコの足だけを拾うて頂きよる所を頂いたと。まあ、それはそれなんですけれどもね。私共が今日思うてみなければいけんことは椛目に、初めから、おかげを頂いて朝晩おかげを頂いておる人たちはです、ね、もう、それはなるほど椛目が一番よかごと皆が思うておるけれども、果たしてそのタコの足だけ拾うようなことはなかろうかという事です。ね。椛目のこれはよかところ、これだけは自分は身につけなければいかんと、なるほど、これだけでは大体は信心は出来んです。これは、私が、古賀先生がここにおります時に、言うておって、まあ、私もそれを言うておった。ね。とにかく私が信心を頂くならば、よかところも悪かところもいっしょに頂きなさいと私は申します。ね、どこも、ここも頂いてそしてその後に、いけないものなら出せばよいのだとこう。ところがあんだがたいけないと思うておる中に、はあー、これが椛目の独断場だというような所に、その、裏にひそんでいるかも分からんのだから、良いところ悪い所とらにゃいくまいがというてその私は話しておる、いうておる。
今日も飯塚いってから、その事を話す。そしたら、もうその古賀さんが、あー最近脳震盪、風呂場でひっくり返って、脳震盪起こしてですね、青いものが黄なに見えるごとなっとる。今までのここのどっか、脳がですねこんな具合にずーとこんな風になりよるような気がするそうです。錯覚を時々起こすようになっておる。それ以来。それで、もう(いきじ?)はそれからちゃんとしてから、帰って(意気地?)はちゃんとしておるけれどもというて話しておられたのそうですが、池尻先生が言いよったそう、も「う僕はお母さんおかげを受けられないのじゃないかと思う」ち。もうそりゃ椛目でどの位聞いて来たか分からんち、そう思いながら僕は出来んち。いわゆる今まで習って来たそれが、頭の中に残ってどうしても、椛目流になれないちいうわけです。だからもう僕はおかげ頂けないのではなかと、悲観的なことを言うのですから、そげなことじゃあるもんね、私はどうでも、椛目の信心を体得させてもろうて、本気で頂かにゃいけん。それこそ、ひろこじゃないけれども、ひろこですら、ひろこはちょっと、( ? )の為に従兄弟になります。(?)姪になるわけですから。ね、ひろこですら、おかげ頂いて行きよるじゃないかと。ね、しかも、まだ10いくつのところに人が助かっていき、毎日お話を頂き聞くものはおらん、晩なんかはそうまでお話を頂いて若い人たちで賑わうそうです。ね。
それが、例えばもう無条件に椛目流にこう、その、なっていきよるひろこのためにはやはり酢を利かせなければいけんのじゃないだろうかということ。これは、ここまでのお話ですけれどもね、私今日はパーと話したんです。「大体、あんた(幸時先生?)がいっぺん、飯塚のほうから、熊本にやられてしもたんじゃろうか」と私が言うとこですたい。ね。( ? )の教会に籍を移してしもたっちゃ、それで、難儀でも助からんというので、椛目にきたんじゃろうがというた事でした。椛目でおかげを頂きだしたら、途端に飯塚の先生もやはり今度は( ? )いわばほしいなったと。極端にいうなら。自分もやっぱり飯塚の親先生が( ? )の教会の先生よりも、やはりその、あそこで育てられたっちゃけんという気持ちがあるもんだから、結局飯塚に行っておるけれども、私に言わせるならば、もう実をいうたらもう、あの時に熊本に自分はいってしもうたのじゃから、熊本を捨ててしもうたならば、本気で椛目に私が思いはそこにあるとじゃから、(?)じゃったら本当は私の腹の中では取り組んでこれないと私は思う。とは、私は言わんのだけれども、そこにいきゃ、酢を利かせにゃいかんところです。ね。
大体先生は、自分の( ? )しかおっしゃらんけれども、後には何を言おうとしておられるのかと、それは( ? )ここにほしいというのじゃないけれども、先生自身が椛目流の本当の信心を頂いて、人が助かるようなおかげを頂く為にはそうじゃなからなければならん。これは例えば外から参って来る人たちなんかでも、私は本当に痛いです。本当は。ね。「あなた方が自分達の御用を頂いておる、そこで助かるならそこで一生懸命打ち込みなさいと。けれども家の教会では助からんと思うたらもう、もうスキットしていきなさい」と、こういいたいのですけれども、さあ、今の教団の生き方がですね、それではまたいけませんし、ね、けれども、そこにいきゃ、おかげを頂いておるもの自身が、その気になり、酢を利かせなければいけないわけなんですけれど、なら椛目でなら高嶋さんにしろ、古谷さんにしろですよね。こうやって、ならもう打ち切って椛目に来ておるから、果たしてならその、タコの足だけでも拾いよるかということを一つ思わなければならないですよね。よかとこだけを自分の物として身につけていきよるかと。ね、もうただ椛目の信者というだけでただ威張っておるだけのことであって、もう自分は椛目流になってしもうたと思うておるだけの事である。いうなら、椛目の湯の中に浸っておるというだけであって、果たしてよかとこだけでも、頂きよらんのじゃなかろうかという事。そして、まあ、なんか知らんけれども、椛目の悪いとこだん、だんだん身に付いていきよるという事がありゃせんかとこういう事なんです。ね。なら今日私が言いたいのはそこなんです。
古賀先生が、永田先生がね、タコの足のところだけを拾うて頂きよると言う事は、わざわざよその教会からでもくる、教会をもっておってからでも来るというのであるから、何かを頂いて帰らなければおかんというものをやっぱり来るたんびに、または、ここで修行しておる時もその事をまあ、古賀先生は考えておっただろうと思う。
これだけ、椛目の信心の素晴らしいところだから、これだけはもって帰らなければというものがあっただろう。意欲が違うとった。けれども、それをひろこさんのようにその酢を入れて、寿司御飯にして頂くというところまで、頂けてないところに、いわゆる寿司といえばね、やはり、寿を司ると書いておるが、寿を司るとこの信心までも、頂いて帰ることが出来ないでおる所のガンというのが、そこにあるんだとこういうこと。もう椛目にもう、そもそもから椛目にご縁を頂いておるんだというような、お姉さんの場合でもです、ね、確かに椛目の信心は有り難いというておりながら、椛目の信心のよかとこだけすら、身につけておらんのだろうかと、もういっぺんね、反省してみる必要がなかろうかと、今日は永田先生の話を聞きながら思うたことなんですけれどもね。
しかし、永田先生ありがたいですね。もう適切にあなた、もうそのそれこそ、十幾つのお夢を、やら、お知らせを頂いたのが、本当椛目流ですね。それをここで頂かれば先生そうですもんね、それどころじゃないですもんねというようなことを頂いておられるです。ね。ですからこれだけ神様が、何かわからさえ様、下さろうとしておるのですから、いや、先生その気になられたらおかげ頂きますよというて、もう、遅らせたことですけれどもね。一つ私共も、例えば過去はみなさんだけではない、家族のものもそうです。ただ私は椛目のお広前の家族の一員だというてです、ただ浸っておるだーけで、椛目で私の信心はどれだけ、頂いておるかと。どれだけ私流儀の信心を身につけておるかというと、やはり同じようなことがいえるのではないでしょうか。ね。そこには本当にひろこさんではないけれども、本当に酢を利かせて、そして、たこも御飯もない、それこそ白御飯にして、それを頂いてしまうというような信心が、本当に欠けておるのではないだろうかとこう思うですね。
どうぞおかげを頂かねばなりません。